パン屋の寓話

本文書は第1稿であり、今後大幅に改訂される可能性がある。

[要約]
2006年3月9日における量的緩和解除に関して、それが危険な賭けであることを論じる。危険な賭けである理由は、インフレ率がほぼゼロに近い現状では名目短期金利はほぼゼロになってしまうため、もし景気が悪化した場合に金利を下げる余地がほどんどないためである。

[現在の状況]
2006年3月9日に日本の中央銀行*1である日本銀行(以下、日銀)は銀行の当座預金残高を上下させて、世の中に回るお金の量を調節する量的緩和政策---これまで約5年間継続されてきた---を解除(終了)した。

日銀は今まで「生鮮食品を除く消費者物価指数(以下、コア物価指数)の前年比上昇率が安定的に0%以上となるまで量的緩和政策を継続すると『約束』」*2してきた。

しかし、3月3日に発表になったコア物価指数(季節調整済)が前年比で0.5%の上昇になったことを受け、3月8日、9日に日銀で開催された政策委員会・金融政策決定会合で「消費者物価指数の前年比はプラスに転じ、先行きプラス基調が定着していく」と判断され、解除が決定された。

今後、日銀は金利を用いて金融政策を行う。

この文書は3月9日に「量的緩和が解除になった」との報道の直後から書き始められた。

[パン屋の寓話]
ある小さな町で一人のパン職人が一軒のパン屋を開店した。町に始めて出来たパン屋であったので、それなりに繁盛した。そこでパン職人でもある店主はアルバイトの数を増やし、パン焼き釜も大きなものに買い換えてさらに多くのパンを店先に並べるようになった。

そして、一年ほど経った頃、小麦粉を卸している業者がやってきて、「今後、10年間、毎日20キログラムの小麦粉を買うと契約していただければ、お安くしますよ」と店主に持ちかけた。店主は大喜びで契約した。契約書を見ると、この契約を破棄するには巨額の違約金を払わねばならないのだが、それには気にしなかった。

さらに半年ほどして困ったことがおきた。突然、客足が止まってしまったのだ。店主は首をひねったが、原因はすぐに分かった。駅前にショッピングセンターがオープンし、そこに大きなパン屋が開店したのだ。

その後、少し客足は戻ってきたものの、もっとも繁盛していた頃の半分にしかならず、店主はアルバイトを解雇し、大きなパン屋釜も止めている時間が長くなった。

それよりも困ったのは毎日届けられる小麦粉である。一日20キロも使わないので、余ってしまうのだ。倉庫には使い残しの小麦粉を高く積み上げているが、それも数日中に限界になってしまいそうだった。しかし、契約を破棄するには巨額の違約金を払わねばならない。店主は困ってしまった。

彼は何を間違えたのだろう*3

[制御と状態]
著者は基礎工学部というちょっと珍しい名前の学部を卒業した。その後、同じ大学の大学院---基礎工学研究科---修士課程に進み、1996年に課程を修了している。「基礎工学」というちょっと珍しい名は「科学と技術の融合」を目指すと言う高い思想を表している*4

おかげで、著者は物性物理という分野を専攻していた科学者志望の(ただし、希望に反して極めて出来の悪い)学生だったが、基礎工学部が有する高い思想のおかげで多くの技術に関する授業を受けることが出来た。

なかでも制御工学の授業は面白かった。そして、授業の中で重要な話を聞いたことを今でもよく思い出す。

「制御変数は状態変数に応じて柔軟に変化できるようにしておかねばならない」

解説しよう。制御工学においてシステムはある時点tの状態変数と制御変数を入
力し、次の時点t+1の状態変数を得る「箱」として定式化される。


状態変数はシステムの状態を示す値で、その状態変数が目的の値を達成するために柔軟に変化させられる値が制御変数である。

パン屋の例で言うと「パンの売り上げ」が状態変数、「使用する小麦粉の量」が制御変数である。パン屋の失敗は「パンの売り上げに対して、柔軟に小麦粉の量を変化できるように留意すべき」だったにも関わらず、「毎日20キログラムの小麦粉を購入する」という契約をしてしまったことにある。

制御変数の柔軟性を失うという決定をしてしまったためにパン屋は失敗したのである。

[現代における金融政策の重要性]
著者は学部4年、修士課程2年を物理学に費やし、博士課程に入ってからは統計学に時間を費やしてきた。いわば「典型的な理系」の一人である。そんな著者が2001年半ばに経済学を学び始めて*5驚いたことは「現代の経済学者は政府の不景気対策として財政政策をあまり重視していない」点にある。財政政策の分かりやすい例としては「橋を作る」「道路を作る」「ダムを作る」などの公共投資が挙げられる。

著者が驚いた理由の一つは、中学か高校の世界史の授業で「アメリカ経済は1930年代の世界恐慌からニューディール政策のおかげで回復した」と学んだ記憶があり、「ニューディール政策公共投資」と記憶していたからである*6。そのイメージがとても強烈であったので、2001年(つまり著者が31歳になる)まで「政府の不況対策は公共投資だ」と思い込んでいたのであった。

しかし、それは間違っていた。現代の経済学者は「政府の不況対策は公共投資だ」とは思っていないのである。

現代の経済学者が財政政策の代わりに政府の不景気対策として重視しているのは「金融政策」である。金融政策とは貨幣(日本だと円)を発行する主体が貨幣の発行量を増やしたり、減らしたりする政策である。世の中全般のものの値段である物価水準が短期には変わりにくいと想定する*7と、貨幣発行量の増加によって実質的に人々は豊かになるため、消費が刺激され景気に好影響を与えることになる。

短期名目金利を低下させると(短期に物価水準が変わりにくいという仮定の元で)、実質的な貨幣保有量が増加するため、中央銀行は不況下においては短期名目金利を低下させることによって不景気からの脱却を助けている*8

中央銀行は現代経済において極めて重要な責任を担っている。日本での中央銀行とは日本銀行(日銀)である。

[サマーズの検討]
著者は2001年年末に読んだ一つの論文のことが今も忘れられない。Lawrence Summers, "How Should Long-Term Monetary Policy Be Determined?"である*9

My second proposition is that the optimal inflation rate is surely positive, perhaps as high as 2 or 3 percent. On the hand, the losses from low positive rates of inflation are likely to be small. (中略) On the other hand, the benefit of a positive rate of inflation comes in three places. The first is the avoidance of the zero interest rate trap.
(私の二つ目の主張は、「最適なインフレ率は正であるはずだ」である。その値はおそらく2%から3%になるだろう。まず、2%から3%程度のマイルドなインフレに起因する損失はとても小さい。それに対して、正のインフレ率であることの利益は三つ挙げられる。その第一のものが、ゼロ金利トラップを避けられる点にある)

[Summers, L., 1991, "How Should Long-Term Monetary Policy Be Determined?" Journal of Money, Credit, and Banking, Vol. 23 pp. 627から引用]

これだけでは普通の人には何を言っているのか分からないと思うので少し解説しよう。

1.中央銀行は不況期には名目金利を下げて景気回復を助ける使命を担っている
2. 通常、名目短期金利はインフレ率と正の関係にあり、インフレ率が極めて低い(ほとんどゼロに近い)場合、名目短期金利もほぼゼロになってしまう
3. インフレ率が極めて低い(ほとんどゼロに近い)場合、名目金利を下げることができない(名目金利はマイナスにはできない)ため、景気回復を助けるという使命を果たせない
4. そういう事態(the zero interest rate trapと呼ばれる)を避けるために、中央銀行は常日頃から2%から3%のインフレを目指しておくべきである

これがSummersの論じていることである。名目短期金利中央銀行にとっての制御変数であるから、Summersの言っていることはまさに「制御変数は状態変数に応じて柔軟に変化できるようにしておかねばならない」ことを意味している。

[暗闇への跳躍再び]
2006年3月9日に量的緩和政策は解除された。金利を使用する政策に復帰し、当面はゼロ金利を維持することが宣言された。さらに「中長期的な物価安定の理解」としてインフレ率前年同月比0〜2%を公表した。

この現状が極めて危険であることはここまで読んだ読者ならばすぐに理解できるだろ。問題点をまとめると以下に二つになる。

1. 現在、ゼロ金利であるため、不景気に突入しても名目金利を下げられない。そのため、中央銀行としての使命を果たせない
2. Summersの議論に見られるように中央銀行が目指すべきインフレ率は2%から3%である。現在の「中長期的な物価安定の理解」では低すぎる

福井総裁は「息の長い景気回復が続いていく」と見ているようであるが、常に景気には不確定な部分が伴う。2001年に小泉首相が「改革なくして景気回復なし」と述べて、構造改革にまい進したとき、それをプリンストン大学のKrugman教授は"A Leap In The Dark"(暗闇での跳躍)と呼んだ。

今や二度目の暗闇での跳躍が始まろうとしている。暗闇の跳躍の結果として日本経済はどこかに落ちるのかもしれない。柔らかな草地に落ちてくれれば良いと心から願う。しかし、硬い岩場に落ちれば傷つくのは日銀ではなく多くの庶民なのだ。

[参考文献]
日本銀行、2006、「新たな金融政策運営の枠組みの導入について 」
http://www.boj.or.jp/seisaku/05/pb/k060309b_f.htm
日本銀行、2006、「通貨及び金融の調節に関する報告書」
http://www.boj.or.jp/press/05/ko0603a_f.htm
Bertsekas D. P., 2005, Dynamic Programming and Optimal Control (Volume 1), Athena Scientific: Massachusetts.
Gali, J., 2002, "New Perspective on Monetary Policy, Inflation, and the Business Cycle," NBER Working Papers 8767.
Krugman, P., 2001, "A LEAP IN THE DARK" New York Times.
Romer, D., 2005, Advanced Macroeconomics, McGraw-Hill:Irwin.
Summers, L., 1991, "How Should Long-Term Monetary Policy Be Determined?" Journal of Money, Credit, and Banking, Vol. 23, pp 625-631.
Taylor, J., 1993, "Discretion versus policy rules in practice," Carnegie-Rochester Conference Series on Public Policy, Vol. 39 pp. 195-214.

*1:お札を発行している

*2:平成18年 3月10日、衆議院財務金融委員会における福井日本銀行総裁報告による

*3:この寓話が面白くないという苦情は受け付けない。実は書いた本人もそう思っている。

*4:http://www.es.osaka-u.ac.jp/sch/outline/history.html

*5:今まで読んだ経済学の教科書としてはLjungvist and Sargent, "Recursive Macroeconomic Theory," (2nd ed.), Walsh, "Monetary Theory and Policy," (2nd ed.), Blanchard and Fischer, "Lectures on Macroeconomics"などである

*6:著者のニューディール政策について理解が相当にいい加減なものであることは、恥ずかしながらつい最近になって知った。

*7:実際に現代マクロ経済学ではそう考えられている

*8:この説明はNew KeynesianによるNew IS-LMモデルによるものである。

*9:Summersは最近、Harvard大学学長の辞任を表明した。報道によれば理由の一つに女性研究者に対する差別的発言などがあったようであるが、ここではそれらについては関係なく、彼の経済学者としての業績のみに着目する。