Targeting rather than discretion

[お断り] 以下述べることはすべて矢野個人の意見であり、矢野が所属するいかなる組織・団体とも関係ありません。

[現在までの状況]
(1) 政府から武藤敏郎氏を日銀総裁に、白川方明氏、伊藤隆敏氏を副総裁にする人事案が提示された
(2) 武藤氏・伊藤氏に関しては参議院で否決されたため、白川氏が副総裁に就任することのみが決まった
(3) 18日朝(午前7時現在)、新しい人事案は提示されていない←今ここ

[Rules rather than discretion]
ある国に、低地であるために「毎年、台風の時期になると川が氾濫して大きな被害が出る(時には人が死ぬなど人的被害もでる)」地域がある場合を考える。大きな堤防を川岸に築いて、川の氾濫を防ぐこともできるのだが、国の財政難に非常に困っている首相は、どうすべき考えた挙句、以下のように宣言することにした。

「この低地に住むことを禁じる。国は堤防を作って川の氾濫を防いだりしないし、この地に住んで、何らかの被害を受けても一切の援助・補償はしない」

さて、国民はどう行動するのだろうか?

首相の宣言が十分に市民に「信頼され」るなら(つまり「首相は断固としてそうするだろう」と皆が思え)ば、誰もその低地には住まないに違いない。誰だって洪水に巻き込まれて死ぬのは嫌だし、死ななくても毎年、洪水で家が流されるのではたまったものではない。

しかし、首相の宣言が十分に国民に「信頼されなかった」としたらどうだろうか?

もし、一人の勇敢な(というか無思慮な?)国民が、「そうは言っても、この低地にすんでしまえば、首相だって人命尊重の面から『何もしない』ってことはできないだろう」と思って、そこに住んでしまったら?

もし、そう思う人が多けれ(つまり「首相の宣言は信頼できない」と思う人が多けれ)ば、その低地には続々と人が集まり、そこに住み始めてしまうだろう。

最終的には、あまりにも多くの人がそこに住み着いてしまったため、首相は宣言を撤回し、莫大な予算を費やして川岸に堤防を築かねばならない事態に陥るかもしれない。

さて、このような問題を防ぐにはどうすればいいのだろうか?

一つ考えられる方法は法律で以下のように規定してしまうというのが考えられるだろう。

(1) この低地にすむことを禁じる
(2) この低地での川の氾濫を防ぐために堤防を築くことはない
(3) 川の氾濫で被害を受けたとしても政府は支援も補償もしない

・・・なぜ、この方法が「信頼」されるのだろうか?

それは首相は勝手には法律を変えられないためだ。法律は立法府である国会が定めるものなので、首相が「いや、方針を変更します。低地に住む人を保護するために堤防を作ります」と言っても、国会が法律を変えてくれない限り、それを実行は出来ないのである。

つまり、何らかの「ルール」を首相に課す。それも本人が変えられないような「ルール」を。

国の政策の実行においては以上のような「ルール」を用いた場合の方がすぐれていることがしばしば起こり、逆に首相が後で自由にあれこれ方針を変えられるような「裁量政策」は問題を起こすことが少なくない・・・

以上が、Kydland and Prescott, (1977), "Rules Rather than Discretion: The Inconsistency of Optimal Plans," The Journal of Political Economy, Vol. 85, No. 3で論じられた内容の概要である*1

[なぜこんなに混乱するのだろうか?]
さて、日銀総裁選びが、こんなに混乱するのはなぜだろうか?

日銀総裁には(1)具体的な政策の数値目標も、(2)それを実現する政策手段に関しても「ルール」が何も定められていないからだ。

つまり、日銀総裁は(1)どんな政策を実行するのか、(2)それをどのように実現するのか決める裁量的な権限を持っている(第3条に「第3条 日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。」と規定されている)。

「ただちに金利を上げるべし」と思う人がいれば、その人は「今すぐに金利を上げてくれる総裁になってほしい」と思うだろうし、「デフレから脱却することが重要だ」と思う人がいれば、「デフレ脱却に熱心な総裁になってほしい」と思うだろう。「円の尊厳が重要だ」と思う人がいれば(以下同様)・・・という訳で「誰が日銀総裁になるか」が重要になってくる訳だ。

こうして多くの人たちが「総裁なら、あの人が良い!」「いや、そいつはダメだ。この人の方が良いんだ!」と暗闘、乱闘、激闘を繰り広げることになる。

[The Taylor rule]
マクロ経済学の教科書によく出てくる解決方法は「テイラールールを用いる」というものだ。これはTaylor, J. B., (1993), “Discretion vs. Policy Rules in Practice,” Carnegie-Rochester Conference Series on Public Policy, Vol. 39で提案されたものだ。

このルールは「インフレ率が目標インフレ率を超過したら名目短期金利を上げる。また、実質成長率が均衡成長率を超過しても名目短期金利を上げる」と言葉で表すことができる。

つまり、このルールは(1)どのような政策(インフレ目標値と景気の安定化)を実行するか、(2)それにどのような手段(名目短期金利)を用いるか、の二つに制限を課すものだといえる。

[Targeting rather than discretion]
しかし、現在の、アメリカのサブプライム問題に端を発する緊急事態に直面したらどうだろうか?そのような事態の中でも律儀に、そして厳格にルールを守り続けるべきだろうか?

現在では多くの論者が「そこまで律儀にルールを守る必要はないのではないか」と考えているようだと、僕は思う。

そこで考えられたのが「インフレターゲット」というものだ。それは以下のようなものだ。

(1)中期・長期におけるターゲット(インフレ率の数値目標)は事前に定めておく、(2)ただし、そのターゲットをどのように実現するかは総裁の裁量に任せる、(3)さらに金融危機などの異常事態の時にはもっと柔軟に対応する裁量も許す。

これが現在の「柔軟なインフレーションターゲット」という多くの国で採用されている政策の骨子である。

政策の数値目標を事前に定めておくことで「誰が日銀総裁になるか」問題はかなり軽減されるだろうと思う。日銀総裁選びが政争の具になることも防げるかもしれない。

今は誰もこの文章のことを褒めてくれなくても、この文章が正しいことはいずれ歴史が証明するだろうと僕は思う。だから、ここに歴史家たちのために記録を残しておこう。

"Targeting rather than discretion."

*1:ここまでの記述においては厳密性は気にせず、非常に大雑把な議論しかしていないことをお許しいただきたい。また、ここで述べた洪水の例はKydland and Prescott, (1977)に出てくる例を少し変更して記述したものである。