三つの発券銀行、二つの言語、一つの国家 (2)

二つの言語

香港の二日目の朝、学会が始まる前に、飲茶レストラン(点心)で朝食を取った。一緒に居たのは今回の案内役をしてくれている香港生まれの留学生とマレーシアからの留学生(中国系)の二人。香港生まれの留学生が僕にお茶を注いでくれている時に、マレーシアからの留学生が言った。"Do like this." 人差し指と中指でトントンとテーブルを叩いた。この動作の意味は「ありがとう」。

この動作には言い伝えがある。かつてある王が庶民の生活を見るために、臣下とともにお忍びで町を回っていた時、ある飲茶レストラン(当時は飲茶レストランとは言わなかったも知れないけど)で臣下のお茶がなくなった時に王が注いでくれた。臣下は本来であれば、膝を屈して礼をせねばならないが、お忍びであるためできない。そこで臣下は人差し指と中指を折り曲げ、それを膝に見立て、テーブルをトントンと叩いて礼に代えたというのだ。現在では、指は折り曲げずに指の先でテーブルを叩くだけなのだが。

「この習慣は香港だけだったと思う。」とマレーシアからの留学生は教えてくれた。

「で、『ありがとう』はシェイシェイでいいんだっけ?」僕は聞いた。香港生まれ香港育ちの留学生は軽く首を振った。

「ンゴイ」

僕は少し面食らった。シェイシェイじゃないの?じゃあ、「ニイハオ」は?

「ネイホウ」

あ、こっちは似た発音なんだ・・・

中国での公式言語は北京語を基礎にした普通話(Mandarin)だということになっている。ただし、実際にはすべての人が普通話を話せるわけではなく、香港でほとんどの人が使う言葉は広東語である。困ったことに広東語と北京語はまったく違っていて、広東語しか知らない人と北京語しか知らない人だとまったく話が通じないのだそうだ*1

さて、学会では発表の合間にコーヒーが飲めたり、サンドイッチのような軽食が食べられたりするケースがある。今回もそうなっていて、そこで給仕役をしている若い女性がいた。結構カワイイのだが、「シェイシェイ」と言ってもほとんど反応がなくて、ちょっと無愛想というかいかにも作業でやっているという感じがして少し残念だった。

一杯目のコーヒーを飲み終わってから、二杯目を飲もうと思った。紙コップに入ったコーヒーを受け取りながら、僕はふと思いついて言った。「ンゴイ」。

給仕役のおねーさんがその途端に笑顔になった。感情のなかった機械が突然、笑うという感情を始めて知ったように見えた。学会がはじまって二日目のことだった。

そう言えば、日本に来たハリウッドや香港の俳優や女優が日本語で挨拶をかなり受ける。たとえ、「コニチワ」としか発音できなかったとしてもだ。日常生活でも外国人が「アリガトゴザイマース」と言ってくれたら、日本人なら、ちょっぴり笑顔を浮かべてしまうに違いない。本当は「アリゲータ」と言っているかもしれないけど*2

結局、僕は残りの二日間、いろんな人を相手に「ネイホウ」「ンゴイ」を繰り返すことになった。

*1:実は僕は広東語と北京語の違いは日本で言うところの標準語(東京山の手言葉)と関西弁程度の違いでしかないと思っていたのだが、そんな生易しいレベルの違いではないわけだ。

*2:アリゲータ=アメリカワニのこと