畑農鋭矢、(2009)、「財政赤字と財政運営の経済分析」書評(第3回)〜カルマンフィルターを用いた日本における先行研究〜

畑農先生の「財政赤字と財政運営の経済分析」が素晴らしいという話を書こうと思ったら、いつの間にか「フィルタリングアルゴリズムとその応用の歴史」を書くはめに陥ってしまった(「ミイラ取りがミイラ」みたいな(?))書評シリーズですが、第1回第2回に続き、第3回です。今回は日本におけるカルマンフィルターを用いた先行研究として(1)小川一夫先生の業績(1990)、(2)谷崎久志先生の業績(1993)を取り上げます。

財政赤字と財政運営の経済分析―持続可能性と国民負担の視点

財政赤字と財政運営の経済分析―持続可能性と国民負担の視点

[変化ヲ抱擁セヨ〜時変パラメーター〜]
北川源四郎先生によって書かれた「FORTRAN77時系列解析プログラミング」という本があります。矢野がこの本を書店で見つけたのは今から7年ほど前のことです*1。この本には「時変係数」モデルというちょっと変わったモデルの話が非常に詳細に解説されていました。

そこには「Smoothness priors」と呼ばれる矢野がまだ聞いたことがない仮定がおかれていました。それはこんな感じです(1階のSmoothness priorsのことをしばしばRandom walk priorと呼びます。ここではそのRandom walk priorを示します)。

「t+1時点の係数」=「t時点の係数」+誤差項

こういう仮定をおいて、カルマンフィルターを用いて係数を推定するというのが「時変係数」モデルです。このメリットはすぐに分かりました。それはつまり「もし、係数が途中で構造変化を起こしても、それを自動的に追いかけて推定することができる(可能性がある)」ということです。

例えば、変化の激しい現代社会において「係数は一定で未来永劫変わらない」と仮定するよりも、「今は一定だが、将来のどこかで(ただし、いつ変化するかは分からない)変化するかもしれない」と仮定する方が自然です(少なくとも矢野には自然なことに思えました)。

問題は、「なぜこのような推定が可能なのか?」でした。正直に言って、その理由がまったく分かりませんでした。そのため、北川先生の本を読んでから、矢野は三日三晩考え続けました。それでも理由が全く分かりませんでした。

やがて、三日目の夜が明ける頃、矢野はコンビニに朝食を買いに行きました。その途中、明るくなりかけた東の空を見上げてこんな風に思いました。

ああ、これは単なるベイズの定理の繰り返し計算だ

ベイズの定理とは「新しくデータが得られたら、それを用いてパラメーターの推定値をアップデートする」数学的な定理のことです。これは18世紀にトマス・ベイズによって発見された定理です(残念ながら定理が発表されたのはベイズの死後、数年経ってからです)。

この定理を用いて、新しいデータが得られるたびに、「推定を改善する」という作業を何度も繰り返すことによって、長い目で見れば非常に良い統計学的推定が可能になることが知られています*2

時変係数も未知の「状態」も同じように単なるベイズの定理の繰り返し計算を用いて推定すれば良いのだ。そう考えるようになって「なぜ時変係数なんてものが推定できるのか」が矢野にも自然に理解できるようになりました。

忘れもしない今から7年前の夏のことでした。

[日本における先行研究(1)]
カルマンフィルターを日本経済の分析に本格的に応用した例はあまり多くありません。その数少ない例の中でも特に重要な二つの業績について述べさせていただきたいと思います。最初は小川一夫先生の1990年の論文(以下、Ogawa (1990))についてです。

さて、現代マクロ経済学では、しばしば人は「合理的」だと考えることから始めます。ここでいう合理的とは「現在得られる情報を有効活用して、将来のことを予測して行動すること」のことです*3マクロ経済学では行動の最小単位を個人ではなく「家計」と呼ぶため、しばしば「合理的家計」と呼ばれるその「何か」は自分の将来に対する予測に基づき、消費をしたり、貯金をしたり、借金をしたりして、生活すると考えられています。

しかし、人間がそんなに合理的(マクロ経済学で言うところの)かというと大きな疑問が残ります。むしろ人間は非合理的な側面も強いのではないでしょうか?

その疑問は現代マクロ経済学の発足直後から非常に根強く、「非合理的家計がどのくらいいるのか?」に関しては非常に古くからの多くの研究があります。それらの非合理的家計は様々な理由から「流動性制約下の家計」もしくは「借り入れ制約下の家計」と呼ばれることが多いです*4

Ogawa (1990)は、流動性制約下の家計の比率を時変係数モデルとカルマンフィルターで求めています。つまり、「家計全体に占める流動性制約下の家計の比率は時期によって変わるのではないか?」というのが小川先生が立てられた非常に重要な疑問です。

結果としてOgawa (1990)により流動性制約下の家計の比率は時期によって変化することが明らかにされています。この結果は非常に重要です。なぜなら、流動性制約下の家計の比率が変化すると、「マクロ経済政策の効果」が変化してしまうからです。大雑把に言って、合理的家計が多い場合は比較的金融政策が有効で、流動性制約下の家計が多い場合は比較的財政政策が有効であることが知られています。流動性制約下の家計の比率が変化しているということはこれらの政策の有効性が時期によって異なることを示しています。

Ogawa (1990)はマクロ経済学の最先端知識とカルマンフィルターが見事に融合された素晴らしい論文です。

[日本における先行研究(2)]
谷崎久志先生の1993年の著書(以下、谷崎(1993))ではさらにラディカルにカルマンフィルターがマクロ経済モデルの推定に用いられています。

谷崎(1993)ではカルマンフィルターと時変係数モデルを消費関数、投資関数、貨幣需要関数などの推定に応用し、それらの係数が時期によって変化していることを示しています。さらに日米マクロモデルをカルマンフィルターで推定するというちょっとびっくりするようなチャレンジもしておられます(びっくりしたのは矢野だけかもしれませんが、本当に素晴らしい先駆的業績です)。

さらに谷崎(1993)はカルマンフィルターの入門書としても使えるように配慮して書かれています。特にこれだけカルマンフィルターの詳細な導出から応用の仕方、実際の分析結果、その後の発展の可能性などを(それらの技術的詳細も含めて)まとめたものは世界的にもあまり例がありません(参考文献でご紹介するように現在では全文がPDFで公開されているので、この分野に興味のある方はぜひご覧になることをお勧めします)。

カルマンフィルターを日本経済の分析に本格的に応用した例はあまり多くありません。その数少ない例の中でも特にOgawa (1990)と谷崎(1993)は非常に素晴らしいものです。ぜひとも多くの方に知っていただきたいと矢野は切に願っています。

次回(第4回)、「財政赤字と財政運営の経済分析」

[参考文献]
Ogawa, Kazuo, (1990), "Cyclical variations in liquidity-constrained consumers: Evidence from macro data in Japan," Journal of the Japanese and International Economies, Elsevier, vol. 4(2), pages 173-193, June.

谷崎久志、(1993)、『状態空間モデルの経済学への応用 ― 可変パラメータ・モデルによる日米マクロ計量モデルの推定 ―』神戸学院大学経済学研究叢書9、日本評論社.
http://ht.econ.kobe-u.ac.jp/~tanizaki/cv/books/ssm/ssm.pdf

*1:この本から矢野は赤池情報量規準(Akaike Information Criterion, AIC)に基づく統計学というものを学び、その後、北川先生の業績を追いかける中で「モンテカルロフィルター(粒子フィルター)」という新しいアルゴリズムに出会うのですが、まあ、それは別の機会に。

*2:言うまでもなく、正確な説明ではありません。正確に知りたい方は先日ご紹介したBayesian Signal Processingの第2章などの専門文献を参照してください。

*3:詳しい人は、「それは『人間はベイズ推定をしている』と仮定しているのではないか」と気がつくかもしれません。その通りなのですが、その話はまた別の機会に。

*4:矢野自身は、non-Ricardian householdsと呼ぶようにしています。それら合理的家計(Ricardian Households)と合理的でない家計(non-Ricardian Households)の違いがマクロ経済でどのような影響を及ぼすかについてもう少し知りたい方はマンキュー「<第2版>マクロ経済学II『応用編』」(東洋経済新報社)の第5章「消費」を読んでみることをお勧めします。