畑農鋭矢、(2009)、「財政赤字と財政運営の経済分析」書評(第1回)〜神は人類にノーバート・ウィーナーを与えたもう〜

[要約]
連続型世代重複モデルに流動性制約下の家計を加えたモデルの構造パラメーターをカルマンフィルターで時変推定するという極めて先駆的な研究手法を用いて、流動性制約下の家計の比率を推定するとともに、様々な視点から日本における財政維持可能性や財政運営について論じた世界で先駆的な業績に満ちた著作である。多くの方に強く推薦させていただきます。

財政赤字と財政運営の経済分析―持続可能性と国民負担の視点

財政赤字と財政運営の経済分析―持続可能性と国民負担の視点

[書評を数回に分ける試みに関するお断り]
今まで何度か書評を書かせていただきましたが、今回は書評が長過ぎるので、数回に分けて掲載したいと思っています。実はまだ書き終わっていないので、矢野自身も何回で連載が終わるのか分かりませんが、畑農先生の本は非常に素晴らしいものなので、ご興味のある方は申し訳ありませんが、しばらくおつき合いください。

[カルマンフィルターとは何か]
最近、DSGEモデルのパラメーター推定に「マルコフ連鎖モンテカルロ法とカルマンフィルター」を使う手法が普及したので、カルマンフィルターを知っているのはほぼ常識になりましたが、数年前まではカルマンフィルターをちゃんと分かっている経済学者は多くはなかったように思います。

そのため、数年前にはよく以下のように聞かれました*1

質問者「矢野さん、カルマンフィルターって何ですか?」
矢野「コーヒーを作るときのフィルターと同じですよ。」
質問者「・・・・(ふざけやがってこの野郎)」
矢野「・・・・(本当なんだけど(´・ω・`)ショボーン)・・・・」

・・・・・・さて、コーヒー豆を買ってきて、豆を挽いたら、コーヒーメーカーにフィルターをセットしますよね?それに熱湯をそそぐとおいしいコーヒーができる訳です。そして、先ほどセットしたフィルターを見ると、そこには出し殻になったコーヒー豆を見つけることができるはずです。

つまり、フィルターはコーヒーを作るために、出し殻を取り除くための仕組みである訳です。コーヒーを飲みたい人からすれば、出し殻は単なるゴミに過ぎません。それと同じく膨大なデータから適切な推定をしたい人にとってからすればデータに含まれるノイズも単なるゴミに過ぎません。

重要な違いは、「コーヒーを作るときには紙のフィルターを用いる」のに対して、「カルマンフィルターではベイズの定理を用いる」。これだけ。

[神は人類にノーバート・ウィーナーを与えたもう]
カルマンフィルターについて述べる前に、問題のそもそもの発端となった天才数学者について述べなければなりません。その人の名前はノーバート・ウィーナー(1894-1964年)。歴史的には「サイバネティクス創始者」ということになっています。

第二次大戦が始まった頃、ウィーナーは空を飛ぶ航空機を高射砲で効率的に撃ち落とすにはどうすればいいかを考えていました(これは彼の主著「サイバネティクス」の序章にそう書いてあります)。彼はこんな風に考えました。

高射砲で航空機を撃墜するにはその位置を正確に測定しなければダメだ。さらに航空機は常に移動している訳だから単に位置を測定しただけではダメで、次の瞬間の位置を予測しなければならない。それと航空機の移動には空気抵抗などの影響やその他のランダムな影響も考えなければダメだ。待てよ。他にも「我々が航空機の位置を測定するときの観測誤差」もあるぞ。

結局、「航空機の真の位置」と「次の瞬間の真の位置」を知るためには、航空機の観測データから観測誤差を除き、さらに航空機に加わるランダムな影響を除き、航空機の真の位置を計算し、さらに航空機の移動を考慮に入れた次の瞬間の真の位置を計算する必要がある訳です。誤解を恐れず、その発想を大胆に式で表すと以下のようになります*2

「真の位置」=「観測データ」ー「航空機の飛行経路の誤差」ー「観測誤差」

つまり、真の位置を知るには観測データから航空機の飛行経路の誤差と観測誤差という二つのゴミを取り除く必要がある訳です。その「ゴミを取り除く」ことを工学者や統計学者は「フィルター」と呼んでいます。

さて、ブラウン運動などの研究ですでに数学者としての地位を確立していたウィーナーは数学的な理論を駆使して、その問題を解くべく努力しました。

そして、やがてその誤差を取り除く数学的な定理を証明します。その成果はほぼ同時期に独立にほぼ同じ成果を出したロシアの天才数学者コルモゴロフの名前と合わせてウィーナー・コルモゴロフフィルターと呼ばれています(彼の主著である「サイバネティクス」の第3章がまるまるウィーナー・コルモゴロフフィルターの解説に当てられています)。

さて、ウィーナー・コルモゴロフフィルターは精緻な理論ですが、いくつかの問題がありました。そのうちの一つは「過去のデータが完全に分かっていないと使えない」という点です。現実の問題では「過去のデータが完全に分かっている」なんて状況は考えにくいので、それが問題でした*3。その欠点が解決されるにはもう1人の天才ルドルフ・カルマンの登場を待たねばなりません。

次回(第2回)、「『ルドルフ・カルマンよ。あれ。』と神は言った。」

*1:さすがにMCMCとカルマンフィルターを使ったDSGE推定が常識になった現在ではそのような質問を受けることはなくなりました。

*2:言うまでもなく正確な式ではありません。

*3:ウィーナー自身もその点はよく分かっていたようで、「サイバネティクス」の第3章に「現実の世界では過去のデータが完全に分かっているとは考えにくいので、自分の方法では不完全な近似しかえられない」と書いています。