Limit Of Arbitrage 経猿

[お断り]
1. 弾さんの「『行動経済学』友野・光文社新書に対して感想を」との要望にお応えして書いたものです。しかし、時機を逸してしまったので、トラックバックはしません(いろいろと考え込んでいるうちに思ったよりも時間が経過してしまいました。頭が悪くてすみません)。

2. 以下の記述はすべて「現時点での矢野の個人的な考え方」に過ぎません。
実際の世の中とは全然違ったり、世界の大半の経済学者は違った考え方をするかもしれません。それと実証分析には基づいていません(それどころか実証可能かどうかもはっきりしません)。「まあ、こんな風な考え方もあるのかなぁ」と参考程度に読んでいただければ幸いです。

[話の設定]
さて、話を簡単にするために世界に二つの街(以下、市)しかない場合を考えます。「そんなの非現実だバカ野郎」などという苦情は一切受け付けません。とにかく誰が何と言おうが、そう仮定します。

一つ目の市には「(新古典派経済学における)合理的経済人」と呼ばれる悪名高き人々が住んでいます。合理的経済人(以下、経人)は自分の趣味や志向をよく分かっていて、ものの価値をよく分かっており、さらに世の中(経済の状況など)もよく分かっていて、なおかつ長い将来にわたって自分の利益を最大化するように行動します。一つ目の市は人が住んでいるので「人市」と呼ぶことにしす。

さて、二つ目の市には猿が住んでいます。ただし、ちょっと特別な猿で、ものを作ったり、売ったり買ったり、つまり経済活動をします。と言っても所詮猿なのでものの価値はあまりよく分かっていません。経済活動をする猿なので「経猿」と呼ぶことにします。二つ目の市は猿が住んでいるので「猿市」と呼ぶことにします。

["Rational" is beautiful: 「合理的」って素晴らしい]
ここで人市でのミカンの値段が10個500円だったとします。経人は合理的経済人なので、10個500円は適切な価格であると言えます。しかし、隣の猿市では−−猿は愚かなので−−ミカンが10個600円で売られていたとします。

さて、ある時、ある男(太郎と呼びます)が人市と猿市でミカンの値段が違うことに気がつきました。太郎は思いました。「人市でミカンを買って、猿市で売ると100円儲かるぞ」。ただし、話を簡単にするために人市から猿市への輸送費はゼロだとします。

さて、結局どうなるかと言うと、太郎がどんどんと人市からミカンを運んできて売るので、猿市でミカンがあふれてしまって、さすがに猿も食べきれずにミカンの値段が下がるはずです。どこまで下がるかって?

多分、10個500円まで。というのは10個500円になると太郎は儲からなくなるので、人市からミカンを運んでくるのを止めてしまうからです。

さて、この話の教訓は「合理的ではない人たちが多くいても一部に(経済学的な意味で)合理的な人たちがいれば、物の値段は合理的な価格に収束していく(だろう)」ということです*1

これを言った人というのはかのミルトン・フリードマン先生*2なんだそうです*3

こういった仕組みが世の中で働いているとしたら、ごく一部に合理的経済人がいれば、経済全体としては「新古典派経済学」が想定するように振舞うことになります*4

[The Limits of Arbitrage: 経猿]
さて、ここで少し用語を覚えましょう。太郎は「人市で10個500円でミカンを買って、猿市で10個600円で売ることによって100円を儲けた」わけですが、こういう行為を裁定取引といいます。英語ではarbitrageといいます。太郎がせっせとミカンを売った結果、猿市でのミカンが10個500円になった状態を無裁定(no arbitrage)といいます。

で、「世の中そんなにうまく動くのかよ?」ってことなんですが、まあいつもうまく行くわけではありません。

たとえば、猿市での値段が10個500円に下がってしまう前に、人市でのミカンが売切れてしまったとしたら・・・

たとえば、猿市の市議会で「猿市のミカン産業を保護するために、人市からのミカン輸入を禁止せよ」という決議がされて、太郎がミカンを人市から運んできて売ることが出来ないかもしれない。

そういった場合、猿市では10個500円にならず、合理的な価格からはずれたままになる可能性が大いにあるということです。

さて、こういった「裁定取引の限界」を理論化した論文としてShleifer and Vishny (1997)があります。行動経済学の基本的論文です。ここで述べたような「裁定取引の限界」がある場合は、新古典派経済学のような合理的な経済状況にはならず、非合理な人間の行動から経済が大きく影響を受けることになります。

[で、実際の経済はどうなの?]
うーん、難しい質問ですね。実は矢野には分かりません。個人的には行動経済学が示すような非合理的な人間の経済学と新古典派経済学が示すような合理的な人間の経済学の中間くらいに現実はあって、時期によって非合理よりだったり、時期によって合理的に近かったりするのではないかと思っています。特にある程度長い期間で見ると合理的に近いことが多いのではないかと思っています。その場合には動学マクロ理論のようなものが有効だと思います*5

[参考文献]
Shleifer and Vishny. (1997). " The Limits of Arbitrage," Journal of Finance.
Kogan, Ross, Wnag, and Westerfield. (2006). "The Price Impact and Survival of Irrational Traders," Journal of Finance.
http://web.mit.edu/lkogan2/www/KRWW2002.pdf

[参考] Limit of Love 海猿 http://www.umizaru.jp/

*1:もう一つの教訓は「間抜けな投資家は合理的な投資家のいいカモだ」です。

*2:1976年ノーベル経済学賞受賞

*3:矢野はこの話をフリードマンの論文で知ったわけではなく、ある経済学の先生から教えてもらいました。

*4:実際には合理的経済人と完全市場などの仮定が必要になります。正式には経済学の教科書を参照してください。

*5:それと現在、主流の動学マクロ理論は市場の不完全性を前提としたモデルが多いので、新古典派そのままの理論を用いているわけではない点にも注意が必要です。